死のイメージ
初めて人の死に接したのは、ひいおばあちゃんのお葬式で、4〜5歳くらいだった。
今でも覚えているが、別に悲しいことではなかった。
誰だかわかっていなかったし、親戚の家で行われた式だったが、その家にはお気に入りのおもちゃ群があって、僕が騒がないように親戚のお兄さんが遊んでくれた。
棺に花を詰め、霊柩車に載せて、火葬場まで行って、遺体が焼かれるのを見守った。
死んだ、というのはわかっていたが、生きている姿を見たことがなかったからか、眠っているような遺体をみんなで囲む会が催された、というだけだった。
それからしばらくして、バイオリンの練習をサボったかどで母親に怒られ、ふてくされて、布団にくるまりながら泣いている時に、初めて死を意識した。
といっても、母親に殺されそうになったとか、あまりのひどい仕打ちに自殺を考えたとかではなく、
母親の言い放った、空からひいおばあちゃんが見てるぞ、というような意味の言葉について考えていた。
全くくだらない脅しを言ったものだと思うけど、カーテンの隙間から曇った夜空を覗いてみて、今日は曇ってるから大丈夫だな、と思ったのを覚えている。
曇った空と、閉まったカーテンで、脅しの効果はなかったが、 その言葉から、死んだ後も意識が存続し続けるのだ、という概念を感じ取ったに違いない。
当時知り得た知識から、死とは、
- 眠るようなもので、
- 息をしてなくて、
- しゃべれない、
- 燃やされる、
- 埋められる
というものだった。
意識の主体が、脳という物理的容器に束縛されていて(この認識の正しさは主張しないが)、 燃やされたらなくなってしまうということすらわかってなかったので、 眠りながら、息を止めて(ここまではやってみた)、燃やされて、埋められる、その間中ずっと喋れないのが何十年も(永遠に!)続くのを想像して怖くなり、 全然泣き止まなくて、この時ばかりは厳しくしすぎたと思ったのか、その晩だけは母親は優しかった、と思うのは美化された記憶かもしれない。
今では、死はそういうものではない、とわかってはいるものの、あの時見た死のイメージは今でも残っていて、死に対しては悲しさよりも恐怖、時には憤りすら覚える。
Thu, 25 Feb 2010 10:02 カテゴリ noise, life, image processing